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  • 執筆者の写真YORIKO制作スタッフ

明日会えなくなるかもしれない私たち。



「もし明日、生涯会えなくなる人がいたとしたら、あなたは何をしますか?」

 

こんにちは、短編映画「YORIKO-ヨリコ 」の広報を担当している内海です。


11年前、わたしは東京 新宿のオフィスビルでその時を迎えました。

倒れる予定のない大きなロッカーや棚がガシャンガシャンと倒れ、座っていることさえできず床に這いつくばり、ただ時が過ぎるのを手を合わせ祈り続けたことを思い出します。


震源地が東京ではなく三陸沖、そして今から大きな津波が来る。と理解してからは、記憶と時間軸が歪み、しばらくしてテレビの中に映し出された懐かしい風景が濁流に飲み込まれながらミシミシと音を立て壊れていく光景を、スローモーションに近い感覚で呆然と眺めていました。

と同時に頭の中は高速回転で思考が止まらず、「わたし、今何すればいいんだろう?」と大げさかもしれませんが「生きる意味」のようなことを問い続けていたような記憶があります。

わたしの故郷は宮城県気仙沼市、リアス式海岸を望む風光明媚な港町でした。


家族や友人、思い当たる大切な人たちに片っ端から何十回何百回と電話をかけましたが、もちろん誰一人繋がらず、不安でたまらない時間を過ごしていましたが、一方、東京やその他地域の友人知人からたくさんのあたたかい電話やメッセージをもらい、一緒に泣き、笑い、励まし合いながら過ごした時間は、私の人生にとって本当にかけがえのない宝物となりました。


ここからの11年を書くと、まとまりのない文章になってしまいそうなので割愛しますが、わたしは今宮城県仙台市に住み、企画を通じて東北で頑張る人たちを応援する仕事をしています。

東北に戻って来た理由はいくつかありますが、一番の大きな理由は、


「東北の人(少なくともわたしの周りの人たち)は、苦しいことをシュールに笑いとばす強さを持っているから。そしてそこに言いようのない愛おしさを感じたから。」

なのだと思っています。


思い出の家を流され、仮設住宅に入った近所のおばあちゃんは

「ここは文明開化だ!全てが未来だ!」とガハガハ笑い、

こちらも家が流されブロック基礎だけになった自宅を前にした友人は

「このあたり茶の間だったからここでコーヒー飲むべ。」と笑いながら缶コーヒーを差し出してくれ、

夫と祖母、そして娘を亡くした同級生は

「こっちのボランティアはほどほどにして、そろそろ自分のボランティアでもしたら?(彼氏をそろそろ作ったら)」と精一杯の笑顔を向けてくれました。



災害、ウイルス、紛争、戦争、

明日が来ることさえあたりまえではない状況が世界各地で起こっています。


一つ一つの出来事や哀しみに心を寄せることはできても、何もできない自分に無力さばかり感じる日々ですが、それでもわたしたちは生きていかねばなりません。

11年前の今日、震災で学んだことは「今という時間を精一杯生きる」という、とてもシンプルなことでした。


ー 今目の前にあること(仕事や勉強)に一生懸命取り組むこと

ー 今目の前にいる人を大切にすること

ー 今という瞬間に感謝すること


きっとこういうことの積み重ねが、昨日よりいい自分になること。

そしてそういう生き方をする人たちが集まれば、よりいい社会になるのではないかと思っています。


本作「YORIKO-ヨリコ 」も震災やコロナ禍を経験した東北のクリエイターたちが、特にこの2年間、人と人とが分断された「普通ではない日常」を過ごす中で、自分たちができることは何だろうと模索し、話し合い、願い、生み出した作品となっています。


彼らが投げかける「小さくも深い問い」を感じていただき、観終わった後に、みなさんにとって大切な人を想いアクションを起こしていただけたのなら、作り手にとってこれほどうれしいことはないのではないかと思っています。



「もし明日、生涯会えなくなる人がいたとしたら、あなたは何をしますか?」



YORIKOで主演を務めていただいた小野寺ずるさんも同じ気仙沼出身。

彼女のインタビューもぜひご覧ください。


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